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たぬき         (峰の残雪)

私の実家のある住所地は香取市香取であるが 合併の前は佐原市香取であった。 山里であり
十代の頃近所の家の軒先にタヌキが飼われていたのを憶えている。
 昨年の事だが 実家のリフォームの為に母が我が家に泊まって 私が一人で実家に寝起きする事が
暫く続いた事がある。   その折弁当の食べ残しを裏庭に捨てておいたら 次の日すっかり食べられて
おり 発泡スチロールの容器までかじられてボロボロになっていた。  おー何かいるぞと
すっかり嬉しくなって 次の日も食べ残しを犬走りの上に置いておいた処 又全部食べられていた他に
壁にたてかけて置いてあった古い茶色のサンダルがかじられて かなり山側の方に散乱していた。
その辺りには野良猫はいるが 野良犬はいない地域なので 狸だったのだろうと思っている。
 母の言では ハクビシンかもしれない・・・

小さい子供の頃映画館にいると観客への呼び出しがあった。 昔はマイク設備が無く 映画館の従業員が
後方で大声で怒鳴るという方式であった。 「ヨシンバさんヨシンバさん 表で狸が待ってます」
観客一同 映画はそっちのけで ドッときた。  翻訳すると「吉葉さん 吉葉さん 表で田貫さんがお待ちです」
という事であった ようだ。

実家のある辺りは 明治の廃藩置県の時最初は茨城県に属していた。利根川の蛇行を治すのに従って千葉県に組み入れられたものであり
その為 古い歴史的な事象は「常陸風土記」に記されている事が多いようである。
 隣あった藩どうしは仲が悪いようで 青森県として統一された津軽藩と南部藩は有名である。
お祭りにしても津軽の方では「ねぷた」と濁らず 南部の方では「ねぶた」と濁るそうだ。
はねっと が出て踊り跳ねまわるのは南部の方らしい。

富士山も山梨と静岡の綱引きは古くより大変なようであるが 湖好きな私としては富士五湖の
方へ行く事が多く まだ逆さ富士で有名な「狸湖」へは行った事がない。
 今度 機会があれば 「狸湖」いや「田貫湖」へ行ってみたいと思っている。
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雲海           (峰の残雪)

今日の朝刊に八ヶ岳での遭難死亡記事が載っていた。34歳の男女である。  冬の八ヶ岳それも
主峰の赤岳近辺は天候一つで 魔の山へ変化してしまうのであろう。 元F1レーサーの片山右京氏が
富士山で2名の友人を凍死で失ってしまったのは 記憶に新しい。  冬の富士は子供でも登れる夏とは一変 日本で一番 ダントツに怖い山である。 標高が高いだけでなく単独峰の為 風がまともに吹きつけ身を隠す場所が無いことである。
今夏だったと思うが 北海道の大雪山系での遭難事件は 簡単に防げた事故だと思える。
衣服が濡れ そこに風が吹いてくるとどんどん体温が奪われてゆき 低体温症になりいづれは
凍死してしまうのである。 冬山でなくても朝起きてみると ポリタンの水が凍ってしまっているのを経験
した事がある。
聖職の碑(いしぶみ)という鶴田浩二 三浦友和 主演の遭難記の映画がある。長野県の小学校で大正時代に
あった実録の映画化である。場所は 中央アルプスの木曽駒ケ岳(2956m)で 8月26日という夏の日に
先生も含め37名の小学生が凍死したものである。 父兄 遺族の悲しみは想像を絶するものであり
生き残った先生や学校側の苦渋は大変なものであったことと察しられる。

 若い頃南アルプスの北岳(富士山の次に高い山3193m)に夜叉神峠からのルートで友人と二人で入った時 朝のうちは晴れていたのに午後から大嵐となり 頂上を目前にして下山した事があった。
友人は強行する事を主張し私は下山を選択した。友人も渋々下山に同意したのだが 後々 折に触れてボヤかれたりした。 時折 あの時登りきってしまえば良かったのかな という様な思いがよぎる事もあったが 今こうしてまだ生きているのだから それはそれで良かったのだろうと前向きに考えるようにしている。
 山登りをして 道に迷った場合 下ってはいけない。 必ず登って稜線に出て 方角を確認してから
正しいルートで下山しないと大変な事になる場合がある。
山には 必ず獣道があり 人が歩いたルートだと思って降りて行くと沢に行き当たってしまい 道がなくなり
沢沿いに進むと滝となり 無理して下りると草つきで足を滑らせ 滑落する事となる。

 八ヶ岳は高一(15才)の夏休み 高校生になって山岳部に入部して春山山行で生まれて初めて
山(妙義山)に登り 2度目の山行であった。  北八から南八ヶ岳の編笠山まで4泊5日の行程であった。

八ヶ岳は昔日本で一番高い山であったが あまり自慢しすぎた為 富士山に恨まれ 富士山の友達の
ダイダラボッチという大男に頭を蹴飛ばされて 今のようなギザギザな頭になってしまった という言い伝えがある。

八ヶ岳は中央線側から見て一番左の蓼科山だけが単独峰であり 他はずっと連山になっているので 夏場は
縦走する場合関東近辺では最も安易な山である。
北八ヶ岳と南八ヶ岳に分かれており 北は蓼科山から丸山 双子山 横岳 縞枯山 茶臼山 天狗岳 根石山までである。 10年程前 家族で横岳ロープウェイで頂上近く迄登ったが 生憎小雨まじりでガスがかかり
何も見えなかった。 私が夏山合宿で行った頃はまだロープウェイはなかったと記憶している。
 北八は高度も低い為 木が生い茂りテント場になる池も丁度良く点在し ゆうれいが出るので有名な
池などもある。
南八に入る最初の山は硫黄岳である。 頂上がなだらかで様々な高山植物が咲き乱れており 昼寝をしたく
なるような雰囲気であるが 左側面は一気に切り立った崖になっている。  次が南八の横岳である。
南の横岳は切り立った岩や崩れ易い足元で 鎖場の連続であり スリルを満喫できる山である。
横岳を下りだすと眼前に見えるのが 主峰赤岳のどっしりとした山容である。
 八ヶ岳は中央線側から見たりした時 けっして美しくは見えず ごつごつ感が強いのであるが
縦走路沿いに横岳から見る赤岳の威容は圧巻である。
そして阿弥陀岳は縦走路からは右手にちょいはずれている。 ルートに戻ると権現岳 西岳 そして
最後が編笠山である。
私が行った時は 3泊はテントを張り 最後の一泊だけ編笠小屋へ泊まる事となった。
朝 5時頃眼を覚ましおもてへ出てみると 雲一つ無い快晴であり 赤とオレンジ色の混じった太陽の
光がキラキラ眩しく 空はあくまでも青く足元には真っ白い真綿のような雲が切れ目なくびっしりと
どこまでも続き その先にチョコレート色に光った槍ヶ岳他北アルプスの霊峰が威厳をもって
立ち並び この世の景色とは思えなかったのを 今でも鮮明に憶えている。
 そして合宿最終日 中央線の小淵沢まで下るのであるが これが長い。 長くて永いのである。
だらだらの下り道でほぼ一直線の為 いくら歩いても景色が変わって来ない。  そのうち周りが
霧に包まれ視界が悪くなり 暫くするとやや晴れてきて どんどん進むとすっかり視界は
良くなり 今迄眼下にあった雲が 今度は頭の上になり 下界の天気は曇りだという事に気づかされた。
又 この時はじめて雲は以外と低い処に居るものだと知り 人間の住んでいる頭のスグ上には
いつも大量の水が横たわっており いつ落ちてきても決して不思議ではなく 否落ちずに浮かんで
いる事の方が面妖な事に思え・・・・その思いは今も余り変わっていない。  人間40年や50年では
余り変わらないという事であろう。   五十 六十は鼻たっれ。という誰かの言葉があるが
まさにその通りである。
  だらだら歩いていると 後ろから農家の軽トラックがやって来て駅迄乗せてもらえる事となった。
あの時のオジさんありがとう。
山へ行くと人の親切が身に沁みるものであり 又すぐ仲良くなるものである。
   もう山へ登る体力など無くなってしまったようで 寂しいかぎりである。




猫自慢         (峰の残雪)

うちの猫は虎のように格好いいのに鯖好きなんです。
家の中のドアは全部自分で開けます。2階のドアもOKです。閉めるのはいつも忘れるけど。

外出の時は高さ1m以上ある腰高の窓からひらりと跳び下ります。
帰って来る時も窓からヒョイと。 窓の外にエアコンの室外機があるので
それに乗ってサッと 窓は誰かに開けて貰うけど。

名前だってルミドリといいます。呼びづらいからルンといわれているけど。
特技があります。 いつもピンク色の舌をチョッとだけ小粋に出しています。
出す大きさと角度が微妙に難かしいんです。

毛づくろいだって得意です。よく舐めまわし毛皮をピッカピッカにし
顔も洗います。   猫ならみんなするって。

それでは世界中でルンにしか出来ない技を御紹介しよう。
爪の掃除をする時おもむろに窓際に行き 爪をカーテンにひっかけギューっと伸ばし
爪の裏側や指の間をよく舐めたり噛んだりして綺麗にして行きます。
一本終わったら次の一本と順番にそして右手から左手へと綺麗にして行きます。
どうヨ どうヨ 凄いだろう。    猫類史上 初の道具を使用しだした猫であり
先々「猫の惑星」という映画の発端になった知的猫の大元は 我が家の「ルン」なのであります。

 来年からは 普通自動車運転免許の取得の為教習所に通う予定です。
何処かで見かけたら是非声をかけて下さい。 (さばとらのルン)より。

下駄     AA  (峰の残雪)

日曜日の夜NHKの「坂の上の雲」を楽しく見ている。  子規の妹役の菅野みほの演技が良いなと見ていたら 下駄で走って
行くシーンがあって昔を思いだした。  うちのMa~Go君達の世代は下駄など見る事も無い時代に 入っており
我々が わらじ を見る位の感覚になるんだろうな と思う。
 私が子供の頃 元日の朝 目が覚めると枕元に新しい下駄と足袋が毎年置かれてあったものである。   小学校の6年生の時に或る友達の音頭で 家を出る時は良いが 学校の門をくぐったら足袋の着用はしないという我慢較べに巻き込まれ 一冬足にしもやけを作りながら我慢して過ごした事があった。
 しもやけは最初は 痒いのであるがだんだん痛くなってくるのである。      中2~中3の時となり町へ転向したのだが それから靴を履くようになった。 
中2迄通った中学は6クラスだったのが 転校後の中学は県下一のマンモス中学であり 一クラスに55 56人位いて 12クラスもあった。 先生もさぞかし大変であった事と思う。 
 道路は舗装されておらず 車が走るともうもうと白い砂埃が舞い上がった。  小学校の頃は
定期便で走っているバスの他は一日に何台もの車をみかける事は希であった。  まだ牛に引かせた荷車の時代であった。    それが高校を卒業する頃にはその春休みを利用して運転免許を取りに行く者が増え出し数年後には 街は
 車で溢れようになった。 そのスピードたるやアット言う間である。
思い起こせば 子供の頃は水道がなかった。 風呂の水は近所との共同の井戸よりバケツで何回も往復して満たした。薪割りと風呂の水は私と兄の仕事であった。
 ご飯を炊くのもカマドに薪であり 電話もエアコンもテレビもなく 江戸時代と違うのは電気がきていた事と
チョンマゲを結っていなかったこと位かもしれない。
日本の いや世界の有史以来 激動 激変の中に我々は生きているようである。
家に電話もなかった時代から 今の携帯やPSを中心としたIT時代への大いなる変化 日々ついて行くのが
大変であるが 面白い点も多々あるようである。


5ヶ月★

札幌で五ヶ月を迎え無事帰京しました。

札幌ではおじいちゃんおばあちゃんのあたたかい愛情につつまれて、ふわあっとした毎日を送りました。

そのせいか東京の生活になかなか慣れない・・・。

ゆうくんもおじいちゃんおばあちゃんがいないことがわかってか、寂しそうにしたりするのですが・・・。

次は桜の咲く頃東京に来てくれるとのこと。再開を楽しみに。

写真は札幌のおうちで、寝返りの練習をする図。


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